夏休みとか年末とかが迫ってくる度にその先自分が生きられている気がしない。ここでもう死んでしまうんではないかとありもしない妄想に声を上げて泣きたくなる。雨は眺めていると静かで暖かいような錯覚を覚えるけど、雨音、特に梅雨時のものは私を襲い、ずっとそこに居なければならないと強制されるような感覚を持たせて焦燥感でいっぱいになる。他者の広げる傘が並んでいる姿は美しいと思う。置き去りにしないで。鬱々とした気分になる。
ずっと春のままだったらずっと自分のことも好きでいられたのかもしれない。春は暖かいし、穏やかだし、実際は違ってもずっと私のそばに居てくれるような気がするから。母性すら感じる。生まれてから死ぬまで歳の数しか春は訪れないけど、私は春に会うために生きているのかもしれない。どうかこれから先も最悪な思い出で汚してしまいたくない。冬に嫌な思いをするよりも春に嫌な思いをするほうが絶対につらい。となると、嫌な思いも吸収してくれる冬の冷たさは救済なのかな。春に対する感情は信仰なんだろう。出来ることなら死んでしまうのも春がいい。
死について考えるけど、別に死にたくない。病気も怪我もしんどいからしたくないし。なるべく平穏に過ごしたいし、怠惰なので家から出たくない。でも全てから逃げ出してしまいたいので、どこか遠い、その土地の人間誰も私のことを知らない土地に行きたい。これずっと言ってるけど。私のことをもっと考えてよって言うのは傲慢なのかな。みんながそれぞれに酷い。私だってそう。だから罪悪感と周りへの嫌悪で吐き出しそうになる。また人間が嫌いになる。大好きなのにずっと一緒にいられそうにないような人ばかり好きになるのはどうしてなんだろう。それでも私はできるだけ子犬のように在りたい。ねえ、私はどうすれば良かったのかな?今までずっと間違えてきたことをよく理解しているのに、どうして間違いを増やしてしまうんだろう。こういうことをずっとずっと四六時中考え続けていたら私はもう既に自分をボロボロに破壊してしまったような気がするんだ。狂信と盲目と溺愛の違いを説明出来る?それで愛が薄れたらどうなっちゃうのかな?残るものはあるのかな?